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ウクライナとロシアでF5社員が体験していること

Andrea Carlos サムネール
Andrea Carlos
Published February 23, 2023

ロシアが侵攻を開始する前、Vita PlaksinaはウクライナでF5の契約社員として働き、夫、子供たち、ヨークシャーテリアと一緒にキーウで暮らしていました。10歳の娘は成績もよく、5歳の息子は入学の準備をしていました。彼女と夫は、キーウ近郊に別荘を購入したばかりで、スペインとイタリアで3週間の休暇をとる計画を立てていました。「それらは家族として当然の権利でした」と彼女は言います。

しかし、わずか1年後の今、Plaksinaはポーランドで暮らし、人生も家族も根こそぎ奪われました。子供たちは、ワルシャワの公立学校に通い、慣れない異国の文化に苦労しています。そして、夫とは9か月以上会っていません。徴兵対象年齢の男性は出国が認められないため、夫はまだウクライナにいます。2人はインターネットにアクセスできるときは話すことができますが、戦争はいまだに終わらず、いつ再会できるかわかりません。

Plaksinaは自分の置かれた状況の中で精一杯努力しながら、一方で人生が置き去りにされているように感じると言います。「私はここにいますが、心と魂はウクライナにあります。仕事があり、子供たちが落ち着いて暮らせるのは幸せなことです。でも、戦争がまもなく終わり、子供たちの成長を見守りながら夫と一緒に暮らせるようになることを今も信じ、願っています。」

Plaksinaは、2022年2月に戦闘が始まったときウクライナまたはロシアで働いていたF5の社員と契約社員29名のうちの1人です。こうしたF5ファミリは戦争のトラウマと戦っており、F5は命をつなぐ活動に取り組んでいます。移住を決めた社員にはビザや移住の支援を行い、自宅に残った社員には経済的サポートや精神衛生面のサポートを行うなど、あらゆる支援を提供しています。

「人を一番に考える会社として、私たちがなすべき会社としての多くの決定はとても明快なものになりました」と、F5の取締役副社長兼最高人事責任者であるAna Whiteは言います。「ウクライナとロシアの社員や契約社員にとって、今はとても困難なときですが、私は彼らの勇気と立ち直る力にいつも驚かされています。」

ウクライナで戦争の終結を待つ

現在、ウクライナ国内にはF5の契約社員3名が留まり、会社とそれぞれ緊密に連絡を取っています。そのうちの1人であるlurii Syvakは、ユーザー エクスペリエンス(UX)デザイナーで、ポーランドとの国境から東に約200キロ離れたイヴァーノ・フランキーウシクで暮らしています。

戦争が始まる前、Syvakはガールフレンドと一緒にチェコに移住し、F5の正社員になる予定でした。しかし、ロシアの侵攻後、18歳から60歳までの男性はウクライナから出国することを禁じられました。また、自分の母親を助け、ガールフレンドの高齢の祖父母を支えたいという思いもあり、全員が国内に留まることを決めました。

紛争が始まって最初の数日は、生活は混乱し、周りの誰もが十分な食料や医薬品、現金、清潔な水、車のガソリンなど、生き延びるために必要な基本的な物資を確保することに必死だったとSyvakは言います。しかし、月日が経つにつれ、人々は新たな現実を受け入れ、戦争に協力することに目を向けるようになりました。Syvakは個人的に、自分のSUV車で食料、医薬品、器材などを必要な場所に運んでいます。仕事はできないもののUXチームとは連絡を取り合い、ウクライナで働くF5ファミリとその家族がキーウの戦闘から逃れてきたときは、自分のアパートに招くこともあります。

Syvakは、自分や他のウクライナの契約社員に対するF5の支援は「とても大きかった」と言います。最初の数日から数か月の間、人事担当者から毎日、時には1日に何度も連絡があり、予想される攻撃についての情報を伝え、Syvakが必要な物資を見つけられるよう手助けし、彼とその家族の安全を確認したそうです。1年経った今でも、彼はまだF5との契約が続いており、家族を養うことができています。彼はまた、人事チームの数人のメンバーと親しくなり、暮らしぶりについて週に何度か写真を共有し、話をしています。

「現実は戦争一色です」とSyvakは言います。「だから普通の話を聞くと、少し嬉しくなります。いつもこうだったわけではないことを思い出させてくれるからです。他の人たちが普通の生活をしていると、自分もいつかまた普通の生活ができるようになると思えるのです。」

ロシアから米国に移住

F5は、2022年以前に既にモスクワ オフィスから社員を移動させていましたが、戦争が始まるとすぐにロシアのオフィスの閉鎖を決めました。ロシア国外のオフィスに転勤しないことを決めた社員には退職金が支給されました。また、ロシアを離れることを決めた社員は、ロシアからの航空便が減少し、住む場所を奪われたF5社員の受け入れ国が減る前に、ただちに移動することになりました。

「ロシアの社員には、モスクワ オフィスを閉鎖しても、F5に居場所があることを知ってもらうことが重要でした」とWhiteは言います。「特にNGINXには豊かな歴史があり、戦時中であっても、当社のチームのメンバーがロシア国外の会社で前向きに進んでいく道を確保したかったのです。」

エンジニアリング担当副社長のMaxim Konovalovは、当時F5のモスクワ オフィスに勤務していた社員8名のうちの1人で、移住することを決めました。Konovalovは断固として戦争に反対しているため、ロシアを離れたと言います。同時に彼は、F5で築いたチームを守り、移住が同僚にとっても会社にとっても正しい決断であることを同僚に示したかったのです。「それは簡単ではありませんでした。特に子供たちがいると、簡単なことではありません」と彼は言います。「50歳を目前にして人生を変えるのは大変なことです。ロシアでの生活を捨て、別の場所ですべてをゼロから作り上げるのですから。」

Konovalovは、妻と2人の子供を連れて、モスクワからアラブ首長国連邦に直行便で移動し、F5のドバイ オフィスで数か月働いた後、2022年8月にサンフランシスコ地域に移りました。F5は、Konovalovとその家族が必要なビザを取得できるようサポートし、彼の移住費用を負担し、Konovalovと家族がカリフォルニアで仮の住まいを見つけられるよう支援しました。「F5は、経済面でも精神面でも大きな支えとなってくれました」とKonovalovは言います。「会社は大きな支えとなり、そのすべてが、私たちが想像もしていなかった状況で私たちの苦しみを最小限に留めてくれました。」

現在、KonovalovはF5のサンノゼ オフィスで働いています。戦争が始まる前は、出張で頻繁に渡米していたため、彼はすぐに慣れることができました。しかし、妻と子供たちは、新しい言葉を学び、馴染みのない文化に順応するのが難しいと感じています。「私個人はここにいたいと思っていますが、家族はどう思うかわかりません。最終的には家族にとっての最善を尽くすつもりです」とKonovalovは言います。

ポーランドに一時的に移住

Plaksinaは、ウクライナを離れてポーランドに行く決心をするまで時間がかかったと言います。戦争が始まったとき、彼女と家族はキーウのアパートに留まり、サイレンが鳴るたびに地下の防空壕に降りていました。「精神的にショックで、何が起こっているのか受け入れることができませんでした」と彼女は言います。「私たちは、戦争がすぐに収まると信じたかったのです。」

彼女の会社との契約はあと数週間しかなかったにもかかわらず、侵攻が始まった瞬間から、F5の人事チームが24時間365日、サポートしてくれたと言います。「彼らは、私たちの様子や安全かどうか、引っ越したいかどうかを尋ねてくれました。契約は延長されるから心配しないようにと言われ、とても大変で混乱していたときに、仕事やお金の心配をしないで済んだのは、本当に大きな支えでした。」

数週間後、Plaksinaと家族は、より安全で親戚と一緒に暮らすことができるウクライナ西部への移住を決めました。しかし、そこでも電気の供給は不安定で仕事もできず、「生活が完全に止まってしまった」ように感じたと言います。夫は最終的にキーウに戻って自動車業の仕事を再開し、Plaksinaは子供たちが常に戦争のことを考えている状況から離れて学校に通えるよう、ウクライナから出国することを決めました。ウクライナに最も近いポーランドを選び、F5の協力でフルタイムの仕事を確保しました。

「日中はもちろん、夜間も人事チームと毎日密に連絡を取っていました。F5がこの仕事を提案し、移住を支援してくれて、本当にありがたかったです。仕事を持って別の国に移住することで、あらゆることがとても楽になりました」とPlaksinaは言います。

Plaksinaと子供たち、そしてヨークシャーテリアは現在、アパートで暮らしていますが、その家探しもF5が支援しました。彼女は、F5のポーランド オフィスでフルタイムの人事採用担当者として働いていますが、ここでは誰もが「とても親切で歓迎してくれている」と言います。

Plaksinaは、夫と再会できる日を心待ちにしています。そして、そのときがまもなくやってくることを願っています。一方、F5は、戦争が2年目を迎える中、彼女をはじめとする人々が深刻で困難な状況を乗り越えるための支援を続けています。

「チームメイトやマネージャー、副社長まで、誰もが人を一番に考えるという姿勢であるのを見ると、これは特別な文化であり、自分もその一員になりたいと思うようになります」と彼女は言います。「私は社員として、また1人の人間として守られていると感じています。この大変なときに、それがどれほど重要なことであったかは言葉で言い尽くせません。」